年明け早々 お隣り韓国から 高校生が 平和学習でいらっしゃるという。
沖縄の高校生とも 交流を予定しているそうだ。
これに ちょっと手伝って欲しいとのことで、 先日 「6月の空」 という絵本の韓国語訳を 完成させた。
宮森小学校・アメリカ軍ジェット戦闘機墜落事件を 題材にしている 絵本なのだけれど これを 朗読をするらしい。
それと もう一つ、 南風原陸軍病院壕の 見学の時、 ちょっと 通訳をしてくれないかということも 頼まれ、
こちらの方は 力がおよびそうもなく、 今 ちょっと あたふたしている。
語彙力の 超少ない アジュンマが 戦争の惨事を語る数々の 生きた言葉を、 韓国語で表現するなんて とんでもないことになってしまった。
でも しかたがない。
それで 今 また、 資料や本を 引っ張り出してきて、 沖縄戦の 全体像を おさらいしているところだ。
ちょっと 長くなるけれども、 まとめてみた。
沖縄開戦時 の 様子を かいつまんで言えば、
海・空の補給を断たれて、すでに「絶海の孤島」 になっていた沖縄の島の周りには、 連合軍が 約55万人、 艦艇1,400隻が 終結した。 小さな島の まわりに これだけの数だから、 おそらく海は 見渡す限り 船、船、で 真っ黒に うめ尽くされていたに違いない。
これに対する日本軍は、 地元の防衛隊、 学徒隊などを 含めても、 たったの 11万人。
ろくな武器も 食料もない。 沖縄住民は、 当時 40万人。 これを上回る 敵の数。
すでに 勝敗は きまっている戦いであった
アメリカ軍の 本島上陸は 45年の 4月1日。 現 嘉手納基地のある 西側海岸一帯からだった。
上陸した米軍は、 18万人。
日本軍の 水際作戦は まったく無し。 で、米軍は 簡単に 無血上陸。
日本軍は 嘉数高台に 陣地をつくり 待ち伏せ攻撃 路線をとるが、
ここも やぶれ、 じりじりと 後退を 重ねた。
それでも 持ちこたえること 一ヵ月半。
日本軍が 組織的に戦えたのは おそらく この期間だけだったと 思われる。
この時点で 日本軍は ほぼ壊滅状態になった。
残った日本軍は 3万人も いただろうか?
沖縄戦の 総指揮を取った 現地司令部は 首里城の下の 本部壕に 置かれていたわけだが、
ついに ここまで米軍は せめてきた。
軍部が ここをあきらめ 南部に逃げることを 決定したのが 5月22日。
降伏して 当たり前の 戦況だったにもかかわらず!!
結局 このあと さらに 一ヵ月 激しい 地上戦がつづき、
(といっても 逃げるのが精一杯で、 戦うどころじゃない)
つまり 激しいアメリカ軍の 一方的な 攻撃のなかで、 逃げまどうだけだった。
住民も 残った日本軍も やみくもに 南部に 逃がれていった。
6月22日、 牛島司令官が 摩文仁の丘で 自決したことによって、
やっと むごたらしい この沖縄戦が 終結にむかった。
(7月2日、米軍が 沖縄作戦終了を宣言、 9月7日 降伏調印式)
沖縄県民の 犠牲者は、 12万人から 15万人といわれているが、 3人に 一人という 割合になる。
うち、 大半は 日本軍が 首里から撤退を決めた 5月末からの、
約一ヶ月の間に、 (つまり 南部に 逃げる過程で) 亡くなったそうだ。
住民も 軍人も 渾然として南部に避難したために、 いっそう 犠牲が 大きくなったという。
世界に目をやると すでに、 4月に ヒトラー 自決、 5月7日には ドイツが 降伏している。
こんな中にあっても まだ、 沖縄で 戦争を 続行させるとは 狂気の沙汰だ。
首里の 本部が やられ時、 無理に 撤退せずとも、
この時点で 日本軍が 決断をくだし、 降伏していれば、
少なくとも 沖縄県民の 犠牲は、 これほど 大きくならなかったと 思う。
住民の命を 盾に取り、 徹底抗戦を強いた 日本軍。
一日でも長く 米軍を ひきつけておこうとした 無謀さ。 むごたらしさ。
ただただ あきれるばかりだ。
この過程で 天皇のはたした 役割は、 大罪に値する。 日本の 敗戦は必至、 終結やむなし としながらも、
「 もう一度、戦果を 挙げてからではないと なかなか難しい」 として、 沖縄戦を 強いたのだから。
この一言で 日本軍も含め 沖縄戦で 24万以上が 犠牲になった。
このことを かの方は ちゃんと知って あの世に 行かれたのだろうか?
戦後は、 積極的に 沖縄を
「アメリカの下に置いてほしい」と
主張もしているから、
簡単に ゆるせる 話ではない。
この、 期間にして
たった3ヶ月間の 沖縄戦で、 失ったものの 多いこと。
韓国との関連で言えば、 朝鮮人軍夫 (軍の雑役を になった)が 1万人から 2万人、
「いわゆる慰安婦」1000人以上が 強制動員された。
彼らも ほぼ 全滅に近かったのでは なろうか、ということだ。
いまだに 名簿も無く、 はっきりしたことが、 分かっていない。
何人が 祖国に帰れたものやら。 もちろん 戦後補償も 謝罪も 何もない。
長くなったので 申し訳ないが、
今年 出会った人の中で、 とても 印象に残った方が いらっしゃる。
玉泉洞(鍾乳洞) 発見にも 一役かった という方で、 考古学から、 人類学、 地質学やら、 地域史にも ものすごく詳しい方なのだが、 ひとつ かれの 持論がある。
「哺乳類の中で 同属を殺す 遺伝子を持っているのは、 チンパンジーと 人間だけだ。
人が 戦争をするのも このためだし、 この遺伝子を 封印する為に
人は、 宗教、 倫理 、哲学を構築し 人間性を 維持している」 というもの。
アジュンマの 漠然と持っていた感覚に ものすごく近く、 これを聞いた時には 驚いた。
ただ かの方は、 なぜか、 「だから ぼくは 戦争反対ではない」 のだそうだ。
生まれもって 闘鶏のような気質の人がいる。
人の上に立ち やたら 英雄、 大将になりたがる人がいる。
主義主張で、はなから 相手を負かそうとする人がいる。
彼此れの 力関係をすばやく感知して 身のこなしのうまい人もいる。
身の回りにも 争いの目が ふつふつと 沸き立っていることを 肌で 感じる。
生きていくことの 困難さは 気の弱い人では 乗り切れない。
ジャングルでは 異種間で 行なわれている弱肉強食が
人間界では 同属内で 展開されている。
自分が 何かやってみたところで なんの 効果が あるものか。
「世界の平和」なんて ありえないんじゃないか。
こうした あきらめのようなものが ずしーっと 体の中に しみこんでいるのは
正直 本当の ところだ。
今年は トルコブルーの 釉薬に 凝った
それでも これ以上 悪くならないよう 人が 頑張っているんなら、
それを 応援してやるのが 人としての 道理じゃないか?
う余曲折を経て そう思うようになった。。
この世で 生きていくしかないならば、
これ以上 悪化しないようにするのも、
一つの 「務め」 かもしれないと。
人さまのように 身を入れては できないけれど、
目先での ちいさな希望を 見いだして
じぶんなりの 生きていく道を いくしかない・・・
ゆっくり、 ゆっくり、
欲張らずに、 ゆっくりと・・・。
松前漬けの 準備
残すは あす 一日だけとなった この2012年。
大詰めを迎えて、 さっき 花屋に頼んでおいた ボケと サンゴミズキを 取ってきた。
黒豆と 白花豆を 火に かけながら、 いま 〆の このブログを書いている。
ことし お世話になった すべての皆様。
つたない アジュンマの ブログを 今年 ご覧になってくださった すべての皆様。
ありがとうございました。
来年も よろしくお願いいたします。
皆様 どうぞ 良いお年を お迎えくださいませ。